江田島の高台から見える歴史
江田島(小用港)から旧海軍兵学校方面のバス。私が着いた日中は1時間に1本しかなく、事前にバスの時間を確認もしないで港の写真を撮ったりしていたら、いざ乗ろうとしたときはバスが行ってしまったところでした。
全く間に合わなかったら諦めもつくけれど、目の前で行かれてしまったのはちょっと悔しい
旧海軍兵学校の見学の時間は決まっていてそれまで1時間ほどあったのですが、「早めに行って売店でも見ておけばいいか」という気持ちで、とりあえずタクシーに乗りました。
運転していたのは高齢の方。「まだ見学時間まで時間あるね。えぇとこ連れてっちゃろか?」(こんな感じの広島弁)。私は「お願いします!」と即答しました。これも運命。
そもそも一昨年初めて江田島に来たのも、その前の年に広島でタクシーに乗ったときに、「江田島に行ったらいい」と薦められたから。
そしてその初めての江田島のときに乗ったタクシーの運転手さんに「早朝に高台に登ると、自衛隊の訓練船がいっせいに港から出ていく美しい姿が見える」と聞いていたからです。
タクシーの運転手さんが言う「えぇとこ」はハズレなしだと思っております。
細い道をぐんぐん上っていきました。
ついた場所からは旧海軍兵学校から江田島の海、山が一望できる場所。
ここに立って運転手さんがいろいろな話を聞かせてくれました。その言葉のひとつひとつが聞き逃してはいけないと感じる貴重なお話でした。
以下、運転手さんから聞いたお話をいくつか。聞き間違い、聞き逃しもあるかと思いますがお許しください。
・戦時中15歳から20歳までの子を、爆弾250キロ積んだ車にほろをかけて隠し「えぇとこ連れてちゃるけ」言われて連れてこられて、船に乗れるようになるまで爆弾を運ぶ作業をしていた。
・船に乗れるようになったら出撃する。約3000人が訓練受けたなか1700人以上の若者が死んでいった。その訓練を受けた中のひとりに「次は自分の番」というところで終戦になり生き延びた人がいて、その人が息子に「位牌をもって幸ノ浦に行ってくれ」といって、きた息子と知り合いになった
・戦艦「榛名」と「出雲」が呉と江田島の間で攻撃された。
・自分が小学生の頃、破壊された「榛名」を完全に沈めるために爆破があり、そのときは全員避難させられた。
・B29は高度1万メートルくらいだが、それよりも低く飛ぶB24で米軍は戦艦「榛名」を攻撃。榛名が反撃して打ったものがB24に命中し、柳井で墜落。乗っていた2名の米兵のうちひとりは広島の刑務所ひとりは東京へ送られた。
広島に入れられた米兵は原爆で亡くなったけれど、東京にいたひとは生き延び、今から5年くらい前に100歳近くなっていて通訳と介護の人と伴に「榛名」が沈んだ場所にきた。その後も一昨年くらいまでは来ていたがその後どうされたかはわからない。
(榛名が江田島沖で攻撃されている様子はWikipediaに写真が掲載されていました)
・江田島の「津久茂」にお寺があり、海軍兵学校の人は出陣前にお寺に色紙を書いて行った。遺族がいまでも一年に一度集まっている。⇒調べたところおそらくこれは「品覚寺」のことだと思われます。品覚寺のサイトにはこのように書かれていました。
寺を訪れた生徒達は、寺の記名帳に名前を記すと同時に、そのときの心境などを書き添えるようになりました。その和綴じの帳面は「津久茂帳」と名付けられ、明治37年(1904)から昭和20年(1945)までの記名簿は21冊、記録された名は3000人余りにのぼります。太平洋戦争末期には、出撃を前にして決意の思いをしたためた一文もあり、歴史の生の声を伝えています。戦後は旧海軍関係者や海上自衛隊の隊員が訪れるようになり、記帳は現在まで続けられています。「津久茂帳」は希望すれば閲覧できます。
・潜水病になった人の救命措置をもとは海軍兵学校の赤れんがの建物よりも奥にある病院でやっていたが、一分一秒を争うので海側に新しいものを作った
(運転手さんの話からすると、おそらくこちら▼の写真の右側の四角い建物が潜水病になった方の救命措置をとるための建物だと思われます。)
・古鷹山(▼下の画像)では今でも自衛隊の訓練で下から15分で駆け上がっている。
・約40年前、古鷹山が三日三晩燃え続ける火災があった(江田島町林野火災)
この場所で運転手さんからお話を聞いたのは、あとから写真のタイムスタンプを見るとほんの10分くらいのことでした。本で読むのとは違う。その場所に立ち、体験した人からの声で話を聞けるというのは本当に貴重なお話でした。
次に江田島に来るときもまたここに立とうと思っています。